子供の時間、大人の時間

本を読んであれこれ考えてみよう

Speed of Time

文化の違いとコミュニケーション
 子供の時は、時間はゆっくりと流れる。小学生の頃、放課後から夕方薄暗くなるまでの時間は物凄く長かった。ところが今は一年なんてあっという間だ。これは誰もが感じる事らしい。
 なにかで読んだのだが※、それも道理だ、というのだ。五歳の子供にとって、一年というのは全人生の20%を占める長い時間だが、一方、五十歳の人間にしてみれば一年など2%を占める時間にしか過ぎない。だから、子供にとって一年というのは長い長い時間だが、大人には一年なんてあっという間なのである。そして、それは年を取れば取るほど実感としてわかる、という訳だ。
 これは言い換えれば時間感覚が年齢に反比例するという事だろうか。

爆笑問題のニッポンの教養FILE076を見ていたら、これが「ジャネーの法則」だという事がわかった。一川先生は、調べてみるとジャネーの法則で計算されるほど極端に時間感覚が変わるわけではないと言っていたが。
 他にここも参考になる。

アンブロークンアロー 戦闘妖精・雪風

神林長平

p87

 近頃はとみに時の流れが加速されているという感じがする。それは自分がもう若くはないという証なのだろう。老けたなどとはまったく意識してはいないというのに、人間というやつは、人生の残り時間が確実に減っているということをこうした感覚によって自覚させられるものらしい。
 この感覚の正体は、たとえてみればこうだ、人生というものは、時間の経過とともに自動的に短くなっていく「寿命」という名の糸に吊るされた振り子の動きのようなものなのだ、と。すると当然、年を取るにつれて振り子の周期は短くなるわけだ、振り子の糸が短くなるのだから。たとえ客観的な時の流れ方は不変だとしても、われわれが主観的に感じる時間というのはこの人生の振り子の周期なのだ。年を取るとともに寿命の糸が短くなり振り子が速く振れるようになるゆえ、あたかも時の流れが速くなるかのように感じる、というわけだ。

 となると死の直前に振り子の周期、つまり主観的な時間の流れは無限大のスピードになる事になる。そして寿命の糸の長さがゼロになると振動は止まり、主観的な時間も停止する。

「課長の厄年」の解説

かんべ むさし(解説 堀晃)

p288

 人間の時間感覚は年齢に反比例して鋭くなるという説がある。四十歳にとっての一時間は、十歳の子供にとっては四時間ほどに感じられる…。速度は距離を時間で割る。日常生活の精神的な速度は、歳とともに速くなっていく。速度を上げている宇宙船を想像すればよい。内部では何も変わっていないように見えるが、外界とは時間的空間的なズレが生じはじめる。宇宙船が光に比較して無視できない速度になると、相対論的効果が現われて、外部の星の分布は歪み、通信の電波の波長は変移し、宇宙船自体が宇宙から孤立しはじめる。厄年の感覚というのは、いつの間にか亜光速域に近づいた宇宙船の感覚なのかもしれない。星図を確認し、通信の波長を修正し、航路を再調整しなければ…。

 厄年の感覚を相対論的効果の現れた宇宙船に例えて説明しているが、前者の方が一般的で後者の方が特殊なので(というか実感がわかない)あまり納得できる説明になっていないような気がする。難しいものをわかりやすいものに例えるのが普通だと思うが。
 さて、次は生物学者の考える時間の話。エネルギーを多く使うほど早くなる「代謝時間」という考え方が提示されている。

時間 生物の視点とヒトの生き方

本川達雄

日本放送出版協会
ISBN:4140840420
p152

 私たちは生まれ、成長し、老いていくわけですが、この一生を通して流れている時間も、同じ速度ではないのかもしれません。体重あたりのエネルギー消費量は、子供では高く、老いてくればくるほど減っていきます(図1)。エネルギー消費量と時間の速さが比例するという代謝時間の考えに立てば、子供の時間は速く進み、大人の時間は遅く、老人の時間はもっとゆっくりということになるでしょう。
 たしかに自分自身を振り返ってみると、時間の感じ方は年とともに変わってきました。子供の頃の夏休みはものすごく長かったし、一日もとても長く感じられたものです。最近はとみに一日が速く過ぎ去っていきますね。この違いは、エネルギー消費量と関係した時間で説明できそうな気がします。つまり、子供はエネルギーをたくさん使って時間が速く進むから、一日二四時間という同じ絶対時間の間に、子供は大人よりもいろいろなことをやってたくさんの経験がもてます。だから逆に子供では一日が長く感じられるのではないでしょうか。
 成長における代謝時間の変化を図にしてみました(図2)。代謝時間は年とともに長くなります。二○歳までの変化は急激で、それ以降はゆっくりと代謝時間が長くなっていきます。子供の一時間が、大人のほぼ二時間に当たります。大人では子供に比べて時間が二倍ほどゆっくりなのです。

 子供の時間と大人の時間が違うという事がエネルギー消費量を元に、数値化されているところがすごい。感覚的な話やたとえ話ではないところがよい。
 同じ考え方が別の生物学者からも語られている。引用文が長くなってしまったが、これは途中を省略すると意味が伝わらない為である。ご容赦願いたい。

動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

福岡伸一

木楽舎
ISBN:9784863240124
p42

 今、私が完全に外界から隔離された部屋で生活するとしよう。この部屋には窓がなく、日の出日の入り、昼夜の区別がつかず、また時計もない。
 この中で、どのようにして私は時間の感覚を得ることができるだろうか。それはひとえに自分の「体内時計」に頼るしかない。だいたいこれくらいで一日二十四時間。七回眠ったからおおよそ一週間が経っただろう。もうそろそろ一ヶ月が経過した頃かな。そして・・・とうとう一年。
 もちろん、このような生活が、たとえ衣食が足りたとしても、まともに続けられるとは思えないが、これはあくまで思考実験である。
 私が三歳の時、この実験を行って自分の「時間感覚」で「一年」が経過したとしよう。そして私が三〇歳の時、もう一度この実験を行って「一年」を過ごしたとする。いずれも自分の体内時計が一年を感じた時点が「一年」ということである。それぞれの実験では、実際の物理的な経過時間を外界で計測しておくとする。
 さて、ここが大事なポイントである。三歳の時に行った実験の「一年」と三〇歳の時に行った実験の「一年」では、どちらが実際の時間としては長いものになっただろうか。
 意外に思われるかもしれないが、ほぼ間違いなく、三〇歳の時に感じる「一年」の方が長いはずなのだ。なぜか。
 それは私たちの「体内時計」の仕組みに起因する。生物の体内時計の正確な分子メカニズムは未だ完全には解明されていない。しかし、細胞分裂のタイミングや分化プログラムなどの時間経過は、すべてタンパク質の分解と合成のサイクルによってコントロールされていることがわかっている。つまりタンパク質の新陳代謝速度が、体内時計の秒針なのである。
 そしてもう一つの厳然たる事実は、私たちの新陳代謝速度が加齢とともに確実に遅くなるということである。つまり体内時計は徐々にゆっくり回ることになる。
 しかし、私たちはずっと同じように生き続けている。そして私たちの内発的な感覚はきわめて主観的なものであるために、自己の体内時計の運針が徐々に遅くなっていることに気がつかない。
 だから、完全に外界から遮断されて自己の体内時計だけに頼って「一年」を計ったとすれば、三歳の時計よりも、三〇歳の時計のほうがゆっくりとしか回らず、その結果「もうそろそろ一年が経ったなあ」と思えるに足るほど時計が回転するのには、より長い物理的時間がかかることになる。つまり三〇歳の体内時計がカウントする一年のほうが長いことになる。
 さて、ここから先がさらに重要なポイントである。タンパク質の代謝回転が遅くなり、その結果、一年の感じ方は徐々に長くなっていく。にもかかわらず、実際の物理的な時間はいつでも同じスピードで過ぎていく。
 だから?だからこそ、自分ではまだ一年なんて経っているとは全然思えない、自分としては半年ぐらいが経過したかなーと思った、その時には、すでにもう実際の一年が過ぎ去ってしまっているのだ。そして私たちは愕然とすることになる。
 つまり、歳をとると一年が早く過ぎるのは「分母が大きくなるから」ではない。実際の時間の経過に、自分の生命の回転速度がついていけていない。そういうことなのである。

 さて、そうなると宇宙もののSFに登場するコールド・スリープは、代謝エネルギーをゼロにすることによって代謝時間を止める技術であるという風にも理解できる。新陳代謝を止める事で、体内時計の秒針を止めてしまう訳だ。
 2,000年前の蓮の種が発芽する事もあるそうなので(大賀ハス)、植物の種子も代謝を止めることで、時間を止めているのだろう。
 種子の状態ではないのに乾燥して時間を止める復活草という植物もあるそうだ。(ナミビアの七不思議死んでも甦る植物、復活草が甦る様子を高速回転で
 動物でも代謝を止めて、ものすごい耐久性を示すものがいる。クマムシである。

クマムシ?! 小さな怪物

鈴木忠

岩波書店
ISBN:4000074628
p77

 十九世紀のドワイエールはすでに、乾燥したクマムシが百二十度の高温に耐えることを知っていた。一九二〇年代になって、このような性質を調べる実験が数多くされるようになる。
 クマムシが乾燥して、肢をちぢめてカリカリに干からびたその姿は酒樽のように見える(図36)。
(中略)
 その同じ頃、ドイツのラームは「樽」の耐久性に関する多くの実験を行なった。彼が一九二一年からの数年間に発表した論文の中で、液体空気(マイナス百九十〜二〇〇度、二〇ヶ月)や液体ヘリウム(マイナス二七二度、八時間)、極端な温度変化(マイナス一九〇度、五時間→プラス一五一度、十五分)、高圧(一〇〇〇気圧)や紫外線にさらしても、クマムシ樽は大丈夫だと報告されている。

 生物学の実験ではなくて、まるで工業製品の信頼性を確認する為の加速試験を行っているみたいな内容である。79ページには電子顕微鏡で観察した後に復活したと書いてあるので、真空と電子線照射にも耐えるという事だ。これなら直接宇宙空間をわたっていって、別の星で水分を得て復活する事だってできるかもしれない。コールド・スリープならぬドライ・スリープだ※。何ともすごい生物がいるものだが、これがそこら辺のコケの中にいるというから驚く。
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※アンヒドロビオシス(乾眠)という用語があるらしい

 次は人間とは全く異なる時間スケールで生きている、別の惑星の生物がでてくるフィクション。きっとエネルギー消費量がものすごく少なくて、代謝時間がものすごく遅いのだろう。ゆっくり歩くという点ではクマムシと同じだが、こちらは場所を移動しただけで死んでしまう、か弱い生物である。

ゆっくりと南へ

草上仁

早川書房
ISBN:4150303517
p208

 スロウリイの全身の長さは四メートルと少し、高さは一メートル強。今でも充分大きい。でも、ジェイが言うのは本当のことだ。子供の時は、全てが大きく見えた。家も、農場も、スロウリイも、そして、時間も。
(中略)
 スロウリイの代謝機構には、いまだに謎が多い。果たしてこの生物を、動物と呼ぶべきかどうかも、議論の分かれるところだ。傘だけのキノコのような、平べったい、ドーム状の体。目も鼻も耳も、その他の感覚器官もないように見える。
 スロウリイは確かに動く。しかし、ひと月にわずか一センチかそこら、南のほうに這い進むからと言って、それを『動物』と呼ぶことができるだろうか?

 こんな生物が身近にいたら、生き物によって時間の流れ方が違うことなんて常識になるのだろう。
 話がだんだんずれてきたので、年齢によって時間の感覚が変わる事に話を戻し、最後は数学の話で終わることにする。なんと人生の時間の流れ方を表す関数があるらしい!?

フラクタル

高安秀樹

朝倉書店
ISBN:4254100507
p28

 このド・ウィースのフラクタルをc(x)としたとき、その積分d(x)((1.30)式)は、どんな関数になっているだろう。図1.14がその答えである。これも図1.11の悪魔の階段のように、非常に奇妙な関数である。この関数は、連続でほとんどいたるところで微分ができ、その値は0になっている。にもかかわらず、任意の区間で狭義単調増加している(本当に増えている)のである。微分は関数の変化の度合いを表わす量であるから、それが0ということは、関数値が一定であることを意味しそうであるが、必ずしもそうとは限らないのである。この奇妙な関数は、ルベーグの特異関数と呼ばれている。非常に例外的な数学上の産物のように思われるかもしれないが、そうでもない。我々の感じる時間の流れが、実は、感覚的にはこの関数にぴったりなのである。横軸を時間とし、区間[0,1]を、ある人の一生とする。一日一日はなんの変化もなく(微分=0)、同じことの繰り返しのように(自己相似性)過ぎていく。ところが、ふと、何年か前の写真などを見てみると、自分の変化に気づく(有限区間では増加)。知らない間に人生の階段を、確実に登っているのである。そして、年をとるにつれて、その登る速さは速くなり(右の方ほどグラフの変化が大きい)、まだまだ、と思っていても、時は容赦なく流れてしまう。