文化の違いとコミュニケーション

本を読んであれこれ考えてみよう

Culture gap

文化の違いとコミュニケーション
 自動翻訳というのは難しいらしい。昔から研究されているのにもかかわらず、まともな結果を出すものは見た事がない。無料の翻訳サービスを使ってみても、笑っちゃうぐらいの結果しかでてこない。
 この小説には現実のものとは比べ物にならないくらい高性能の自動翻訳機が登場する。ある意味、夢のマシンだ。ところがこのマシンをもってしても、文化を共通とする事による知識のバックグラウンドの共有があってはじめてわかるような状況では、うまくコミュニケーション出来ないのだ。翻訳の限界。翻訳機の限界ではない。今はとてもそんな段階ではないが、翻訳機のレベルが上がっていけばいずれこのような問題に遭遇するのだろう。

太陽の汗

神林長平

p10

「あれは日本製の弾薬だ」と私はグレンに言った。
「なぜわかる」グレンは首を傾げて私を見た。
「日本の企業名が書いてある。きみには漢字が読めないからわからないだろうが」
「漢字なら少しはわかる。知っている企業か?有名な企業なのか?」
「いいや。知らない名だ」
「ならば中国製かもしれないじゃないか」
「ちがう」
「なぜわかるんだ?漢字といえば、まず中国だろう」
 新大和化工というのが日本の企業名を示すもの以外のなにかだとは考えられない。私にすればごく自然に、空気を吸い込むのに意識する必要がないのと同じくらいに、わかることだったが、グレンにこれを伝えるのはほとんど不可能な気がした。

 「やまと」は日本を表すから日本の企業なんだ、とか「化学工業」を略して「化工」にするのがいかにも日本の企業っぽいなどと説明しても、外国人に中国の企業かもしれないじゃないかと言われたら、確かに納得させるのは難しそうだ。日本人同士なら何の説明もいらないのに。
 逆に趣味人同士の集まりでは、それが徒になってこんなことも起きる。

絵の言葉

小松左京 高階秀爾

p36

小松 「徒然草」に、狛犬が後ろ向きに置いてあるのを見て、さだめし深いわけがあろうと皆でありがたがっていたらなんのことはない、子供のいたずらだったという段があるけれども、そういう「読みすぎ」もあるでしょうね。

 文化を共有する事による、知識のバックグラウンドの共有は、絵を見て理解することにも必要となる。絵は言葉と違って誤解の入り込む余地がないなどというが、描き手が絵に込めた意味をあまさず読み取るには、見る方にもそれなりの知識が要求されるのだ。

絵の言葉

小松左京 高階秀爾

p41

高階 …レオナルドは、詩で言えることは絵で一挙に言えるという自信を持っていたようです。(中略)そしてレオナルド自身もそれをいくつか試みているのですが、マサッチオ(イタリアの画家 一四〇一〜二九)の「楽園追放」に描かれているアダムとエヴァの身振りというのが、その意味でたいへん面白いのです。楽園を追放されるアダムは顔を両手で押さえ、エヴァは上を向いて手で胸を押さえているわけですね。これは当時のベネディクト派修道院で———今でも修道院はそうですが———夕方から朝まで無言の時間があって、その間は必要なことは手で話していた。十五世紀のそういう手話の辞典が残っていて、それによると、胸に手をあてるというのは悲しみのシンボル、両手で目を覆うというのは恥ずかしさのシンボルなんですね。それから考えるとマサッチオは、エヴァは楽園追放を悲しんでいるけれども罪の意識はなく、アダムは罪の意識で恥じている、という解釈で描いていると見ていい。おそらく当時あの絵を見る人は、そこまで読み込んでいたと思いますね。

 絵を見て理解するのに知識のバックグラウンドが必要な例をもう一つ。

絵の言葉

小松左京 高階秀爾

p24

高階 …アメリカで或る美術史家から聞いた話ですが、シャガールの絵は幻想的だとか理屈に合わないとか言われるけれども、自分には非常によくわかるというんです。実はその人はユダヤ人で、シャガールの絵はユダヤの民話とか民衆的な諺に全部あてはまるというわけです。なるほど、と思いましたね。人間が鳥のように飛ぶことは現実にはありえないけれども、日本語で言えば「天にも昇る」というか、要するに精神が高揚した時に空を飛ぶという言い方がユダヤにあるのだそうです。シャガールの絵からは、その言い回しがピンときて、彼にはよくわかるというのですよ。やはりシャガールの「屋根の上のヴァイオリン弾き」というのも、ユダヤ人ならすぐピンとくる。これは幻想とか理想を追うというか、虹をつかむというような、現実にはなかなか実現できないことを求めるときのユダヤ的表現なんだそうです。…

 文化の違いが、絵においてギャップを生む例もある。現実には存在しないものでも、幼い頃から繰返しこういうものだと刷り込まれると、もうそれ以外には考えられなくなってしまうものらしい。

空想工房

安野光雅

p159-160

 DはDie(さいころ)とDevilをかいた。ところが彼らは、この悪魔はすこしちがうといいはじめた。耳がとがり、口が大きく裂け、尾があるという意味のことを、ゼスチャーたっぷりに演じてみせるのである。そのとき、私はひややかに、彼らの国の悪魔の出てくる低俗な映画を思い出していた。黒ずくめのタイツでからだを多い、ときにこうもりのような羽をつけているものもある。私は、「ひとつうかがいたい」と申し出た。「そのように明確にいえる貴下は、悪魔をみたことでもおありなのだろうか」
 通訳してくれたFさんが、ここのところをどのようにうまくいってくれたか、私にはわからない。Fさんは、「これは、文化のちがいですよ」と、私にいっただけであった。そう、文化のちがいである。言葉は理解できても、その背後にある文化のちがいは、映像に微妙なちがいをもたらすのである。

 文化の違いを「ニュアンスを語尾変化に込める」という設定で表したSF小説。しかし相手の表現したものを100%受け取っているわけではない、という意味では日本語同士だって同じ事か?

敵は海賊・海賊版

神林長平

p18

…わたしはいまの王女、ランサス・フィラール・フィロミーナづきの首席女官、シャルファフィン・シャルファフィア」
 名前の部分だけは彼女は母星語で言った。それは木の葉が風にさやぐような音にしか聞こえなかった。ランサスにしろフィラールにしろ、太陽系での便宜上の呼び方なのだ。正確じゃない。正確な音は表せないが、それはしかたがない。翻訳機ならこう記したろうと思われるが、しかし細かいところまではわからない。その女の名は、喋る相手や時が異なると微妙に語尾が変化するはずだった。相手の身分、関係、気分、天候、場所、その他が複雑にからんで、名に変化を与える。わたしの耳にはそれが聞きとれない。フィラール人は感情を顔にめったにあらわさず、名や言葉にこめるのだ。わたしには、彼女に嘲られているのか頼りにされているのか、その名を聞いてもわからなかった。彼女は表現したにちがいないのに。残念なことだ。