矢のない弓

本を読んであれこれ考えてみよう

Bow without arrow

矢のない弓
 「刀折れ矢尽きる」とはものごとに立ち向かう方策が全くなくなる事を表す慣用句だが、その言葉の通り矢を使い切った後の弓は無用の長物だ。ところが面白い事に、世の中には矢を使わない弓という物があるらしい。

MASTER KEATON 第三巻Chapter6 黒い森

作 勝鹿北星 画 浦沢直樹

「随分、びびってるな。矢はどうした?矢のない弓が、役に立つかよ!!」
「マックス、気をつけろ!!矢のない弓…それは!!」
ビュン(弓から石が飛んでくる)
「ひっ!」
ガッ(後方の男に命中)
「グア!!」
「くそ!!」
ドン(ライフル発射)
「!? どこだ!!」
「や…やめろ、深追いするな!!」
 あれは…鹿の腸(ガット)を弦に利用したビルマの民族武器…弾弓だ!!あんなものを使うなんて…あの男、一体何者…

 弾弓が登場するシーンをもう一つ。

纐纈城綺譚

田中芳樹

朝日ソノラマ
ISBN:4257790237
p 118-120

 弾弓である。ふつう弓は矢を射るものだが、弾弓は弦によって球形の弾丸を飛ばす。弾丸は鉄、石、粘土などでつくられ、大きさはさまざまだ。女性専用の武器ではないが、名手として知られる人に女性が多い。
 この夜、賊を塀の上から落とすために緑雲が使った弾丸は、塩を丸くかためた塩弾であった。敵を殺すことはないが、打撃を与えることは充分にできる。しかも、命中と同時に砕けて四散するので、疾走する馬上の敵を射ても、射られたほうはどうやって攻撃されたかわからないであろう。

 これが現代になると、塩弾を発射するのが弓ではなく銃になる。

ダック・コール 第三話 密猟志願

稲見一良

早川書房
ISBN:4150304025
p154

「ほっといてくれ。お前だって撃たれたんだろ、それも顔を。粒塩入りクラッカーみたいな面になったもんな」
「フン、これは生まれつきだ」
「全く容赦もなくぶっ放しやがる。あの森番の奴ら…」
「性懲りもなく、また行くんだから」
「だけど、あの森はいるなあ」
「いるいる。キジもカモもわんさといやがる」
 男爵の森の話らしい。密猟に忍び込んだ土地の男が、森の番人に見つかり、岩塩を詰めたショットガンで撃たれ、這々の体で逃げてきたのだ。

 さて、最後は弓の名人のお話。道を究めると、もはや矢だけではなく弓すら必要なくなってしまうのだ。

「李陵・山月記」より 名人伝

中島敦

角川書店
ISBN:4041103029
p110-113

 ひととおりできるようじゃな、と老人が穏やかな微笑を含んで言う。だが、それは所詮射之射というもの、好漢まだ不射之射を知らぬとみえる。
 ムッとした紀昌を導いて、老陰者は、そこから二百歩ばかり離れた絶壁の上まで連れて来る。脚下は文字どおりの屏風のごとき壁立千仞、遙か真下に糸のような細さに見える渓流をちょっと覗いただけでたちまち眩暈を感ずるほどの高さである。その断崖から半ば宙に乗出した危石の上につかつかと老人は駆上り、振り返って紀昌に言う。どうじゃ。この石の上で先刻の業を今一度見せてくれぬか。いまさら引っ込みもならぬ。老人と入れ代わりに紀昌がその石を履んだとき、石は微かにグラリと揺らいだ。強いて気を励まして矢をつがえようとすると、ちょうど崖の端から小石が一つ転がり落ちた。その行方を目で追うたとき、覚えず紀昌は石上に伏した。脚はワナワナと頸え、汗は流れて踵にまで至った。老人が笑いながら手を差しのべて彼を石から下ろし、自ら代わってこれに乗ると、では射というものをお目にかけようかな、と言った。まだ動悸がおさまらず蒼ざめた顔をしてはいたが、紀昌はすぐに気がついて言った。しかし、弓はどうなさる?弓は?老人は素手だったのである。弓?と老人は笑う。弓矢の要るうちはまだ射之射じゃ。不射之射には、烏漆の弓も粛慎の矢もいらぬ。
 ちょうど彼らの真上、空のきわめて高い所を一羽の鳶が悠々と輪を画いていた。その胡麻粒ほどに小さく見える姿をしばらく見上げていた甘蠅が、やがて、見えざる矢を無形の弓につがえ、満月のごとく引絞ってひょうと放てば、見よ、鳶は羽ばたきもせず中空から石のごとくに落ちて来るではないか。
 紀昌は慄然とした。今にしてはじめて芸道の深遠を覗きえた心地であった。