釈迦の掌

本を読んであれこれ考えてみよう

Buddha Palm

釈迦の掌
 西遊記の有名な場面に、悟空が釈迦の掌から飛出したつもりで、実は掌の上から抜け出せなかったというものがある。

「李陵・山月記」より 悟浄歎異

中島敦

角川書店
ISBN:4041103029
p173

 そのときちょうど迦葉・阿難の二尊者を連れた釈迦牟尼如来がそこを通りかかり、悟空の前に立ち塞がって闘いを停めたもうた。悟空が怫然として喰ってかかる。如来が笑いながら言う。「たいそう威張っているようだが、いったい、お前はいかなる道を修しえたというのか?」悟空曰く「東勝神州傲来国華果山に石卵より生まれたるこの俺の力を知らぬとは、さてさて愚かなやつ。俺はすでに不老長生の法を修し畢り、雲に乗り風に御し一瞬に十万八千里を行く者だ。」如来曰く、「大きなことを言うものではない。十万八千里はおろかわが掌に上って、さて、その外へ飛出すことすらできまいに。」「何を!」と腹を立てた悟空は、いきなり如来の掌の上に跳り上がった。「俺は通力によって八十万里を飛行するのに、儞の掌の外に飛出せまいとは何事だ!」言いも終わらず觔斗雲に打乗ってたちまち二、三十万里も来たかと思われるころ、赤く大いなる五本の柱を見た。渠はこの柱のもとに立寄り、真中の一本に、斉天大聖到此一遊と墨くろぐろと書きしるした。さてふたたび雲に乗って如来の掌に飛帰り、得々として言った。「掌どころか、すでに三十万里の遠くに飛行して、柱にしるしを留めてきたぞ!」「愚かな山猿よ!」と如来は笑った。「汝の通力がそもそも何事を成しうるというのか?汝は先刻からわが掌の内を往返したにすぎぬではないか。嘘と思わば、この指を見るがよい。」悟空が異しんで、よくよく見れば、如来の右手の中指に、まだ墨痕も新しく、斉天大聖到此一遊と己の筆跡で書き付けてある。

 これとよく似た事が、広大な宇宙空間を移動した時に起こる。いくら移動しても、宇宙の姿はたいして変わりばえがしないという。

太陽風交点 時間礁

堀晃

p39-40

 何万光年飛んでも、何十万光年移動しても、<宇宙>の姿は変わらなかった。
「宇宙のながめはどこまで飛んでもこんなものです。われわれはたどり着く対象としての宇宙を見ているのではなく、単に宇宙の過去の姿をながめているだけのことです」
 コリントは、土岐の素朴な感想に対して、明確な口調で、きわめて形而上学的な解説を加えたものだった。
「今、われわれは地球から二十万光年移動しました。前方に見えるマゼラン星雲は地球で観測されていたマゼラン星雲ではなく、その二十万年経過した後の姿なのです。後方の銀河系はわれわれが出発した銀河系ではなく、二十万年昔の姿なのです。われわれが出発した時の銀河系の輝きは、あと二十万年経たないとここまで到着しません。この原則は、跳躍距離をどれだけ伸ばしても同じことです。宇宙の地平線―――百億光年彼方まで跳んだとしても、変わりばえのしない宇宙の風景があるだけでしょう。宇宙とはそんなものです」